日本にはなぜ旧正月(春節)が残らず、中国には残ったのか。+日本と中国の暦の話(旧暦から新暦への切り替え)

中国で毎年盛大に賑わう旧正月。日本では既に旧正月を祝う文化はなくなりましたが、中国では今も残っています。旧正月とは旧暦の正月のこと。中国も日本も過去、それまで使ってきた旧暦に代えて、西洋(欧米)から取り入れた新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)を採用し、切り替えたという共通の歴史があります。にもかかわらず、なぜ日本では旧正月が消え、中国には残っているのでしょうか。このページでは、旧正月を巡るそんな疑問に迫ります。調べてみると、1つの結論に至るような簡単な問題ではないことがわかりましたが、同じような疑問を持たれる方、興味を持たれた方の少しでも参考になれば幸いです。

ちなみに旧暦は、新暦より約1か月遅れの暦(こよみ)ですが、中国の旧正月は、1月21日~2月22日の間に収まります(毎年日が変わる)。新暦とのずれは、21~52日になります。

目次

【世界】
3種類の暦(こよみ)

旧正月の説明の前に、について、基本的な知識を解説します。どこでも見られるごく一般的な情報です。興味がない方は、次の章へ飛んでお読みください(但し、1つ1つの用語や漢字の読み方などをできるだけ丁寧にわかりやすく解説することを心がけましたので、「今までこういう説明を読んでも意味が分からない部分が多いので、面白くなかった」という方にとっては、何か役立つ情報があるかもしれません)。

旧暦、新暦などのは、人類が時の流れを年・月・日の単位で区切った体系のことです。現行の暦の体系(=暦法)は、太陽暦太陰暦および太陰太陽暦の大きく3種類に分けられます。順に紹介していきます。

1つ目は太陽暦🌞です。太陽の運行をもとに作られた暦で、現在世界のほとんどの国で使われている(=世界の共通暦となっている)グレゴリオ暦は、太陽暦の一種です。「太陽暦」とはまとめた言い方(総称)であり、グレゴリオ暦以外にも多くの太陽暦が歴史上存在してきました。

グレゴリオ暦は、16世紀にローマ教皇・グレゴリウス13世が制定しました(ローマ教皇とは、現在一般的な呼称であるローマ法王のこと。バチカン市国元首)。それまで暦法史上、最も広く、また長く用いられたユリウス暦に代わって用いられるようになり、今日に至ります(ユリウス暦は、紀元前46年に古代ローマの将軍・ユリウス=カエサル、〈別名:シーザー〉が制定)。現在イランはじめ中東の広い地域で使用されているイラン暦も太陽暦です。

地球は太陽の周りを約1年で1周(公転)しますが、1年を12か月に分け、日数を約365日としたのが太陽暦です。4年ごとに、うるう年を置いて366日とし、100年ごとにうるう年を1回省きます

日本や中国で「新暦」(中国語:公历 gōnglì新历 xīnlì西历 xīlì、阳历yánglì など)と言ったら太陽暦(グレゴリオ暦)を指します。

2つ目は、太陰暦🌙です。月の運行を基準として定められた暦です。イスラム暦は代表的な太陰暦で、イスラム教の重要な儀式・祭礼は、これに従って行われます。太陰暦は陰暦🌙とも呼ばれます。

月は、地球の周りを約1ヶ月間(29.5日)で1周しますが、太陰暦は🌙1年を12か月に分ける点は太陽暦🌞と同じですが、日数が354日となる点は太陽暦🌞と異なります。1年が354日しかないので、季節の推移に合わなくなる(だんだん季節とずれていってしまう)ことが特徴です。その為、各暦ごとに、その「ずれ」への対応が取られてきました。
太陰暦🌙は、月の満ち欠けのサイクルを基礎(1か月)としています<新月🌑~三日月🌛~半月🌓~満月🌕~半月🌗~三日月🌜~新月🌑>。十五夜(じゅうごや)、十三夜(じゅうさんや)などは旧暦のそれぞれ8月15日、9月13日の夜を指すので、現在の太陽暦🌞の日付とは一致しません。中秋の名月と言われる “十五夜お月様” は、15日の夜の満月のはずなのに、なぜ実際には毎年15日ではないのか(偶然15日になる場合を除く)、しかも毎年、日にちが異なるのはなぜかといえば、15日が旧暦の15日だからです。新暦では日付が15日になるとは限りません。

3つ目は、太陰太陽暦🌙🌞です。広い意味では太陰暦🌙に分類されるので、太陰暦🌙と同じく陰暦🌙とも呼ばれます。太陰暦🌙をベースに、「季節変化」など太陽暦🌞の要素を取り入れて作られた暦です。基本的な太陰暦🌙が年間354日で、太陽暦🌞より11日少ない為(1年に約11日ずつ前にずれていきます)、その対策としてこの太陰太陽暦🌙🌞は歴史の中で生まれ、発展してきました。太陰太陽暦🌙🌞は、陰陽暦🌙🌞とも呼ばれ、代表的なものにギリシャ暦やユダヤ暦などがあります。
太陰太陽暦🌙🌞は、実際の季節とのずれが、ひと月近くになると、閏月(うるうづき)が設けられて、ずれが調整されました。例えば、3月頃に実際の季節とのずれが1か月ぐらいに広がったとします。すると3月が終わった後に、「閏3月」(うるうさんがつ)と呼ばれる閏月(うるうづき)が導入され、その年は合計13か月になります。閏月は平均すると19年に7回ぐらいの割合で設けられました(=2、3年に1回)。また、閏月の設定は、ずれが大きくなったら入れるという感じで、比較的臨機応変に行わていました。取り入れられた太陽暦🌞の要素には、二十四節気立春夏至秋分冬至など)などがありますが、これらも暦と実際の季節のずれを補うのに役立ちました。

日本や中国で「旧暦」(中国語:农历 nónglì または 阴历 yīnlì夏历 xiàlì汉历 hànlì など)と言ったら、一般的には、太陰太陽暦🌙🌞を指します。実際に、日本でも中国でも使われていました。「純粋な」太陰暦🌙を中国語で言う場合は、太阴历 tàiyīnlì (それでも、太陰太陽暦🌙🌞は広い意味では太陰暦🌙の1つなので、その場合は太阴历 tàiyīnlì という名称でも「純粋な」太陰暦🌙を表すことができませんが)、イスラム暦🕌は、回历Huílì、 回教历Huíjiàolì、伊斯兰教历Yīsīlánjiàolì などと呼ばれます。

【中国】「旧暦(太陰太陽暦🌙🌞)→ 新暦(太陽暦🌞)」への切り替えの歴史

中国では、いつ公的に旧暦(太陰太陽暦)から、新暦(太陽暦)へと切り替えが行なわれたのか、歴史を確認したいと思います。ここも、興味がない方は、飛ばして次の章からお読みください。

中国では、1911~12年に辛亥革命(しんがいかくめい)が起きて清朝(しんちょう)が滅びました。まず、1911年中華民国政府が南京に樹立され建国、孫文中華民国臨時大総統(だいそうとう)に就任、その際、それまで使っていた暦の11月13日を以って、太陽暦(グレゴリオ暦)の施行を政府が各関係機関に通達しました。11月13日を西暦1912年1月1日に改め、同時にそれまで暦として使ってきた元号や「黄帝紀元(こうていきげん)」という暦(清朝末期に一時的に使われた暦、太陽暦を基につくられたもの)を廃止しました。これが中国の歴史上における太陽暦の公的な採用でした。日本の太陽暦採用から40年後、明治45年のことでした。

中国は、日本同様、長く元号を使用してきた国です(例:永楽〇年、康熙〇年など、元号は太陰太陽暦)。元号は、「黄帝紀元」と違い、長い歴史を持ち、1912年2月の清朝滅亡まで使われました。現在は使われていません。元号の廃止は、中華民国政府側から見れば、1912年1月1日となり、清朝側から見れば、1912年2月12日の宣統帝溥儀(せんとうていふぎ)の皇帝退位・清朝滅亡時点となります。いずれにしても1912年であり、今から100年以上前のことです。以後、一時的な復活を除いて、中国では元号は使われなくなりました

しかし、一般民衆にとっては、古来より使い続け、生活と密着した太陰太陽暦を、政府の都合程度で太陽暦にそう簡単に切り替えられたものではなく、旧暦自体はその後も中国全土で広く使われ続けました元号に代表される旧暦太陰太陽暦)は、例えば「永楽〇年の」の「永楽」部分のような新たな元号名称の制定自体はなくなりましたが、年月日はその後も広く使い続けられました。一方、政府が国の公式の暦として制定した太陽暦は当初なかなか普及せず、紆余曲折を経ました。その後徐々に広まり、中華民国時代に一定の定着はみました。個人的な推測ですが、中華民国時代に太陽暦への切り替えが徹底されなかった理由には、絶えず国内の政治的対立・混乱があり、軍閥の台頭、欧米・日本など列強諸国の帝国主義政策への抵抗など、政府の国内支配力・統率力がそれほど強くなく、国内が分裂・混乱していたことが背景にあると思われます。事実、国の権力の強い共産党の中華人民共和国の時代になると、国際化など時代的要因も背景にあるとはいえ、国内で「太陽暦」の普及が急速に進みました。暦の切り替えは、国家の政策の一つなので、政府の国内統治力が強ければ進展しやすく、逆にそうでない場合は、民衆は使いやすい旧来の暦を使うでしょうから、切り替えも進展しにくかっただろうことが想像されます。

1949年、中華民国に代わって中華人民共和国が中国大陸を統一し建国されました。引続き、グレゴリオ暦太陽暦)を国の暦として定めました。上述の通り、強い支配力を背景に、国内の太陽暦の普及を推し進めました。中華民国時代、人によって場面によって、バラバラな暦を使っていた中国社会に、急速に太陽暦を広め暦の統一を図りました。公的な機関がたとえ地方であれ、奥地・農村であれ、太陽暦使用を徹底したのは勿論、教育や報道の発展(時代的要因、政府の後押しの両方が背景)もこれらを後押し、中華人民共和国時代になって、中国は「太陽暦への切り替えを完成」させたと言えます。現在、旧暦の日付が自分でわかっている中国人は、非常に少なくなりました(以前はたくさんいました)。でも、中国のカレンダーはどれも日付の下に「旧暦の日付」が併記されていますし、スマホの待ち受け画面などにも日付の下に旧暦の日付が表示されます(勿論表示されない機種や、表示されないよう設定する場合を除いて)。都市部、農村部に関わらず、中国人はカレンダーや携帯を見れば、旧暦の日付を今も常時知ることができます。また、国の休日である春節、端午節、中秋節の日取りを決定する際、旧暦が現在も使われている為、実質的に国としても旧暦も残していると言えます。

中華民国時代、中国人は自分の誕生日を旧暦で言っていました。現在はこれはほとんどなくなり、太陽暦でみな自分の誕生日を言います。しかし、年代が上の人の中には、一部に自分の誕生日を旧暦で言う人がまだいます(2020年代では、70代?以上の高齢者の一部?場合によっては60代の一部も?)。年代が上の中国人の方に誕生日を聞く場合は、それが旧暦(农历 nónglì など)の日付なのか、新暦(公历 gōnglì など)の日付なのか確認した方が良いかもしれません。中国の旧暦(农历 nónglì)というこの暦は、2016年にユネスコ(国連教育科学文化機関)により、無形文化遺産に登録されました。

尚、台湾では現在西暦(太陽暦、グレゴリオ暦)とは別に、民国紀元という年号が用いられていますが、これは、辛亥革命の最中、1912年1月1日に中国大陸で施行された中華民国の新暦法(太陽暦)であり、1912年1月1日を「中華民国元年元日」としたもので、それが現在も台湾で使われて続けているものです。現在台湾を統治している中華民国政府は、中国大陸に建国された当時、1912年1月1日をスタートして、①「黄帝紀元」(太陽暦)、②「元号」(太陰太陽暦)という2つの暦を廃止し、①「西暦」(=グレゴリオ暦、西洋・欧米諸国と同じ現在の暦)と②「民国紀元」という2つの新暦(太陽暦)に切り替えたのです。

【中国】
旧正月が残っている理由は、「強い国家権力を持つ共産党政府の方針」

旧正月(中国では春節〈しゅんせつ、中国語:春节 chūnjié〉と呼ぶ)とは、旧暦(太陰太陽暦または太陰暦)の正月です。中国だけでなく、「中華圏」「漢字文化圏」などと言われる韓国や北朝鮮、東南アジアの複数の国々で、新暦(太陽暦)採用後も旧正月(春節)の文化が人々の間に残っています。旧正月を祝うことは、旧暦の最大且つ最重要行事と言えます。時は移り、朝鮮半島とベトナムに於いて漢字が使われなくなりましたが、春節をはじめ中国起源の多くの祝い事・伝統行事が、今日もこれらの地域・国々で残っています。漢字文化圏の共通のお祝いと言えるでしょう。

さて、本題の「中国にはなぜ旧正月が残っているか」についてですが、先述の通り、中国では中華民国時代、政府が新暦(太陽暦)を採用したにも関わらず、限定的な使用にとどまり、その後中華人民共和国時代に、強力な国家権力、教育、報道、国際化その他時代的な要因や政府の政策を背景に、全国で急速に旧暦から切り替わり、使用されるようになりました。旧暦が幅広く使われ続けていた中華民国時代なら、人々が旧正月の習慣を維持し、毎年祝い続けていたことが理解できます。しかし、政府が徹底して旧暦から新暦への切り替えを推し進めた中華人民共和国時代になっても旧正月が残り続けているのはなぜでしょうか

中華人民共和国政府による「春節の祝日化」と旧暦の重要性の認識

先ほどから既に少しづつ話題に触れてきていますが、主に次の2点が挙げられると考えています。

1.中国共産党の国内統治力の強さ

2.その共産党政府による旧正月の法制化

もちろん、これ以外にも、中華民国時代の太陽暦採用により、国内で一定程度既に普及していたことや、戦後の教育やメディアの普及によって、新暦の普及が進んだなど色々な要因があると思いますが、やはり政府がはっきりと旧正月の重要性の認識を打ち出した上記「2」の影響が大きいでしょう。

1.については、近年でも2020年以降の「ゼロコロナ政策」(世界でも異例とされている)、それ以前からの国内の言論統制、ネット規制など例をあげれば枚挙にいとまがないように、建国以来政府が強力な統治・支配体制を敷く国です。近年ついつい忘れがちになってしまいますが、そもそも中国は共産党による実質的な一党独裁国家で民主主義国家ではありません。日本や欧米と国の体制が違います。政府の権限が他国と比べて遥かに強力であることはもはや説明不要かと思います。

2.についてですが、中華人民共和国成立の直前(1949年9月27日)、中国人民政治協商会議第一次全体会議において、旧暦の「正月初一」の日を春節とすることが決められました(「正月」とは旧暦の1月のこと)。この会議では、「新たに建国する中華人民共和国では、既に国際社会において大多数の国々が使用する西暦(グレゴリオ暦)を国の正式な暦として採用する」ことが決められたほか、旧暦を基に祝われる旧正月その他伝統行事の重要性を認め、これらを旧暦の日付のまま残すことも決められました。その後、春節は「国定祝日」(国の祝日)とされ、現在に至っています(春節の他にも清明節、端午節、中秋節(4大伝統祝日)など旧暦によって日付を決定する祝日は他にもあり。これらの祝日は太陽暦に於いては毎年日が変わる)。つまり、中華人民共和国政府は、国の暦としては「西暦」(グレゴリオ暦)に統一するものの、同時に旧暦に基づく旧正月(春節)などを残すことを決めたのです。これがその後の中国の歩みの方向性を決めました。。

こうして、中国には旧正月が残りまたした。国として政府が旧正月を尊重し、残す姿勢をはっきりと打ち出したことが、新暦(西暦)の普及の一方で、旧正月が中国に残った理由です。その後、人々の日常生活において、日付や暦の重要性が増し、国内の行政の整備が進み、教育や報道の発展、国際化が進む中で、西暦の普及や暦の統一は急速に進んでいったことはこれまで述べてきた通りです。人々の暮らしの場面から旧暦は急に姿を消していきましたが、今でも旧正月(春節)その他の祝日の為に、政府や関係機関が管理し続けています。カレンダー制作会社も関係機関の1つです。今の時代ネットでは、何年も先まで旧暦カレンダーを見ることができます。中国国民は、旧正月に対する誇りを更に高め、愛着を深めてきています。今では、多くの中国人が旧正月「春節」を、「中国4000年の歴史が誇る伝統行事」と考えています。

【日本】
なぜ日本から旧正月が消えたか?その理由は―

ここからは、「なぜ日本に旧正月が残らなかったのか」について、解説します。「漢字文化圏」の国々(過去漢字を使い、現在使用しなくなった国を含める)で旧正月が祝い続けられている一方で、今も漢字を使い続けている日本では、逆に旧正月がなくなりました。中国と同じく、政府が「旧暦から太陽暦(グレゴリオ暦)への切り替え」を行った日本。なぜ中国や他の国々のように、旧正月が残らなかったのでしょうか。

結論

結論としては、以下の2点が主要因と思います。

1.明治新政府の国内統治力の強さ

2.改暦、脱亜入欧政策推進の中での新暦普及政策、中国のように旧正月を残す意図が政府になかった

1.は表現が先述の中国共産党の説明の時と同じですが、実際日本では、何十年も庶民の間で、旧暦や旧正月が残りました。切り替えも進みましたが、一度に進んだのではなく、時間がかかって切り替わっていきました。その点では、中華民国の状況に似ているのかもしれませんが、中華民国に比べれば、日本の新暦への切り替えはずっと浸透しました。そして、新暦の普及が進む一方で、新年も旧正月から新正月へと変わっていきました。つまり、旧暦の日付ではなく、新暦の日付に基づいて、1月1日に正月が祝われるようになっていったのです。祝い方や行事は、旧正月も新正月も同じですので、単なる日付の移動になります。

以下で順に解説していきます。

政府による強引且つ突然の改暦、庶民の戸惑い・混乱

明治維新(1868年)によって樹立された明治政府は、西洋の制度を導入して近代化を進めました。版籍奉還や廃藩置県などを経て、強力な中央集権を実現していった明治政府は、政治、軍事、文化、教育などの改革を推し進め、日本社会を急速に文明化(西洋化)していきました。

明治維新が始まってから4年が経過した頃、国内では依然として江戸時代から続く旧暦の『天保暦』(てんぽうれき、=太陰太陽暦)が使われていました。天保暦の明治5年10月1日(=西暦1872年)、同年3月に文部省主導の下で設立された頒暦商社(はんれきしょうしゃ)が公式のカレンダーの販売権を取得し、主要都市で新年(明治6年、1873年)のカレンダーを販売していました。頒暦商社とは、江戸時代の暦師(弘暦者)を集めて作られた組織です。販売数が急増していた頃、政府内では、塚本明毅(つかもとあきかた)という人物が明治天皇に「天保暦の廃止と太陽暦の採用」を建議・上奏しました。当時、明治政府は維新の早い段階から、深刻な財政難に悩まされており、様々な改革事業を進めるにあたり、財政問題の解決は急務でした。

塚本が目をつけたのが、士族への給与でした。士族とは江戸時代の武士のことで、江戸時代には地位に応じてを「年棒」として、幕府に仕える武士は幕府から、各藩に仕える武士は各藩から支給されていました。明治維新後、士族は多くの特権をはく奪された上で、官吏として働いていたものには、明治政府から月給制で現金による給与支給がされていました。旧暦(天保暦)の下では平均して19年に7回(=2、3年に1度)、閏月が導入され、1年が13ヶ月になります。明治6年(1873年)には閏6月が予定されていた為、そのままなら年13回の給与支給のはずでした。政府にとって重い負担です。彼は太陽暦への政府の変更事業をわずか十数日で完了させました。

明治5年(1872年)11月9日、改暦の布告(太政官布告)が出され、明治政府は太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を行いました。暦についても欧米との統一をはかることになりました。これによって、明治6年(1873年)から、それまで使われてきた天保暦(太陰太陽暦)に替わり、今日まで使われている太陽暦が採用されることになりました。改暦日は、明治5年12月3日。この日を明治6年1月1日とし、太陽暦に移行することになりました。

官吏への給与は、翌年の閏6月がなくなることで、13回予定の支給を12回に減らし、更に明治5年12月分を不支給とし、合計2か月分の経費削減を政府は実現しました。明治5年12月分が不支給となった理由は、「改暦により、2日間しかないから」(12月3日は翌年1月1日とされ、実質的に存在しない為、明治5年12月は2日間)でした。官吏(士族)の不満が湧き、また準備期間がほとんどなかった(布告から実施までわずか3週間)ことにより国内は混乱しました。カレンダー発行について、政府は緊急に対処する為、「明治6年に限り、弘暦者以外の略暦出版を許可」、「許可を得れば誰でも略歴を刊行できる」などの対策を取りました。一方、既に明治6年のカレンダー(旧暦)を発行していたカレンダー販売会社(頒暦商社)は、全て「紙くず」になり、大損害を被りましたが、代わりに明治6年から10年間の官暦(政府発行のカレンダー)出版の独占権を政府から与えられることになりました。福沢諭吉などの学者は合理的な太陽暦を支持し、普及させるために書物を著しています。

しかし、一般庶民は、それまで数百年に渡って、産業や生活の隅々にまで既に溶け込んでいる旧暦を、政府の紙1枚の通達で手放すはずがなく、その後も長く旧暦は日本国内で使われ続けることになるのです。

庶民は旧暦を使い続けるも、政府の政策が徐々に浸透する

このままであれば、日本は中華民国がさほど状況は変わりません。ところが、この後日本は全体として新暦(太陽暦)への移行が進んでいきます。中華人民共和国時代の中国ほど速くはないにせよ、政府の新暦採用が全国的に民間にまで広がっていきます。これは、明治新政府の政策実行力の強さが考えられます。版籍奉還や廃藩置県により、中央集権体制を築いていった政府は、1877年には、最後の士族の反乱と言われる西南戦争を鎮圧し、国内の反政府勢力を押さえ、より基盤を固めました。政府がトップダウン体制を築く一方、日本の国民も中華民国時代の中国に比べれば、政府に比較的従順であったと言えるかもしれません。薩摩藩・長州藩の薩長連合が、明治政府を樹立し江戸幕府を倒した戊辰戦争(ぼしんせんそう)も、幕府約300藩のほとんどが「日和見」を決めて、当初薩長にも幕府にもつかなかったということですから、反乱やら軍閥やらで国内の分裂が絶えなかった中華民国とは対照的です。明治時代も中ごろになると日本国内で産業革命が起こり、経済や輸出が活況になり、明治後半には、日清戦争や日露戦争の勝利など、国としても上向き勢いがありました(日清戦争の勝利後は国中がお祭り騒ぎになりました)。政府の政策に国民が従う素地がありました。

但し、庶民が旧暦を捨て、新暦で生活し、旧正月も新暦の正月に変えるには、長い時間がかかりました。政府は、庶民の間に混乱が起きないよう、手探りで移行を進めていったようです。特にカレンダー(官暦)に、旧暦を併記するかは、政府でもこの頃毎年のように検討されていたようです。すなわち、カレンダーに旧暦を併記すれば、新暦の浸透が遅れ、旧暦を併記しなければ農民・漁民が混乱し、国の主要な産業である農業等への影響が出かねないということで、農民への指導やカレンダーへの混乱を避けるわかりやすい表記方法の検討など、旧暦併記が検討されながら、結局毎年ズルズルと続いていったことが資料で残っています(当初は旧暦併記は、改暦の混乱を避ける為とした明治6年だけとされていました)。明治13年のカレンダー(官暦)には、●や〇といった月の満ち欠け記号が登場しました。これも旧暦併記廃止へ向けた対策の一環でした。

正月の祝い・行事については、政府の方針は、全国の国民に旧暦でなく、新暦の1月1日にさせることでした。改暦と共に正月の変更も進めたかったのです。

明治22年(1889年)の『両暦使用取調書』という政府の調査資料によると、

新暦正月を祝うか、旧暦正月を祝うか、両方祝うかを調査。部落ごとにバラバラな状態が判明。

国立天文台ホームページ

とあります。新暦は、時間的に、場所的に、その他さまざまな要因で、段階的に少しづつ日本全体に広まっていったと考えられます。

新暦への普及には、教育など諸々の社会的水準も重要であることが覗える資料もあります。

太陽暦が優れているのは明白だが、人民は良さが理解できない、文字が読めるのも1000人に数人程度。太陰暦合刻ですら不便を訴える始末。

明治8年3月25日 内務省(国立国会図書館、国立天文台ウェブページ)

日本人は江戸時代に寺子屋や藩校があったこと、幕末に来日した外国人の言葉などから、「日本人の教育水準は昔から高かった」というイメージを私たちは持っていますが、この新暦普及に関しては、当時の日本人の識字率や教育水準は、政府の政策推進に支障をきたしたようです。

新暦の普及に伴い、やがて正月を新暦で祝うのが主流に

庶民による旧暦の使用はいつまで続いたのでしょうか。また、正月が太陽暦で祝われるようになったのはいつからでしょうか。

1898年、太陽暦が西洋のものと完全に一致するものに代えられました。それまでは、太陽暦がベースとはいえ、日本独自の太陽暦(グレゴリオ暦)でした。

明治36年(1903年)、「日めくりカレンダー」の先駆けとなる商品が大阪で製造されました。この時はまだ旧暦も併記されていました。

明治43年(1910年)、日韓併合の年、政府は前々年の帝国議会の決議に沿って、この年の官暦(政府カレンダー)から旧暦併記を廃止しました。この出来事は、当時の人々に「旧暦廃止」と認識され、旧暦に基づいた行事が新暦で行われるようになる1つのきっかけとなりました。

先述の大阪のカレンダー製造会社も間もなく「日めくりカレンダー」の旧暦併記をやめました。グレゴリオ暦は完全に日本社会の主流になりました。

旧暦の使用がいつまでだったと考えるのが適当か?1873年の政府による改暦時点か、1910年の官暦の旧暦廃止時点か、この間約40年間ですが、その途中のどこかの時点か。1945年からのGHQの占領下でも、GHQにより、日本国内にまだ旧暦の使用がかなり残っていることが確認されています。占領期間中に、「日本国内の旧暦の“痕跡”がほぼ消えた」とも言うことも言われたりしていますので、或いはこの時代まで旧暦使用はかなりの場所で残っていて、それがGHQによって禁止されたのかもしれません。長くて40年か、または戦後まで残っていたと捉えるべきか、いずれにせよ、都市から地方へ、農村へと、地域ごとに家庭ごとに徐々に、段階を経ながら変化していったことは想像に難くなく、また推測することしかできませんが。

旧正月の新正月への移行、太陽暦で正月を祝うようになったのはいつ頃だったのでしょうか。明治43年(1910年)、官暦から旧暦併記が消えた当時、既に旧正月を祝うことは「多くの日本人にとって後進国の象徴と思われていた」ということです。政府の脱亜入欧政策や日露・日露戦争の影響と思われます。旧正月のお祝いや行事、賑わいは、暦だけ変えて、そのまま新暦の正月に移行しました。これも徐々に、段階を経ながら変化していったでしょうから、1つの結論を出すことは、かなり調査・研究でもしない限り難しいことかなと思われます。

一応確認の為説明を付け加えると、日本の旧正月は消えたのではなく、単に「暦の移動」である、ということです。伝統行事が1つ消えた訳では決してなく、単なる暦(カレンダー)上の移動に過ぎないということです。中国語でも日本語でも「日本人は(日本では)だいぶ前から旧正月を祝わなくなった」という言い方をしますし、中国の旧正月の様子が日本の正月の様子とだいぶ違うのを見て、ごく稀に、日本にも現在の正月と全く異質な「旧正月」という伝統行事が昔は日本にあって(場合によっては中国に似た正月が日本にあって)、今はそれが消えてなくなったのではないか、と祝い方や行事まで、変わったとか消えたと考える人がいますが、そうではありません。

補足

今も旧正月、つまり旧暦に基づいて正月を祝う地域があります。沖縄県や三重県の一部です。また、一部の神社の祭典や寺の行事にも残っています。当たり前ですが、中華街や中国人の居住地域では、今も旧正月の時期はにぎわいます。

「旧正月」という言葉が今も日本に残っているのは、考えてみると少し不思議です。旧暦時代の正月のことを話題にする日本人は、今の時代、普通はほとんどいない訳ですから。勿論、上記で紹介した、まだ国内に一部残る旧暦で正月を過ごす地域の様子がメディアで報じられる時は、「旧正月」という言葉が用いられますし(特に中華街の様子など)、またアジア各国、特に中国、韓国、台湾などの旧正月の様子を伝える報道などで私たちは耳にするのでしょう。「旧正月」という言葉は比較的一般的な語として今も私たちの中に残っているような気がします。かつては、恐らく自分たちが過ごしていた旧暦時代の正月を指して、「旧正月」と言っていたのでしょう。「旧盆」と同じように。日本人にとっては、文字通り、古い正月。今は祝わなくなった過去の正月ですから「旧正月」、でも中国人にとっては、現在進行形で毎年過ごす大事な行事なので「旧正月」とは言わず、「春節」と呼ぶのも頷ける気がします。

まとめ

中国では、元旦1月1日は大したイベントもなく(一応元旦当日だけ祝日)、「数ある祝日の中の1日」という感じで、皆淡々と過ごす印象です。それもそのはず、わずか1~1か月半後に旧正月・春節を迎えるからです。中国で最大にして、最も重要な祝日であり、国が前後約1週間を連休として定めています。この間、実家に帰省したり、親戚一同が1か所に集まったり、広い中国の全土で「春運」と呼ばれる、また「民族大移動」とも呼ばれる、億単位の人による帰省ラッシュが起こります。これが、約40日間続きます。始まりと終わりの2,3日間ずつの日本の夏休み・お盆の帰省ラッシュとは桁違いです。

日本と中国は共に、太陰太陽暦の旧暦から、西洋と同じ太陽暦(グレゴリオ暦)の新暦に暦を切り替えました。しかし、日本では旧正月がなくなり、中国では旧正月が残りました。

この理由は、諸々他の事情もあったにせよ、日本と中国それぞれの政府の方針・政策の違いに他なりません。片や日本では、正月も含めた全ての伝統行事を旧暦から新暦に変えることを決め、時間がかかったものの、徐々に国民もそれに従っていきました。片や中国では、中華民国時代の改暦では、旧正月はそのまま従来通り旧暦で祝われ、旧暦自体もかなり広い範囲で残り続けました。これを受けてその後中華人民共和国時代には、太陽暦への切り替えが徹底された一方、正月など指定の伝統行事は、旧暦の日付のまま残すことが決められました。政府が改暦を決めてからも、庶民の間に旧暦使用が根強く残った歴史は、日本も中国も同じでした。こうして、旧正月に関する両国の違いは生まれました。

法律も制度も学問も宗教も芸術も文化も、歴史上海外のものを敏速に吸収し、咀嚼し、消化してきた日本と日本人。一方で、法律も制度も学問も宗教も芸術も文化も、多くを生み出し、周辺諸国にも広め、海外から必要なもの、必要な部分を自分たちの中に取り込みながら、今も自分たちが生み出した伝統を守り続ける中国と中国人。旧正月の話題に触れたら、両国のそんな違いに想いを馳せてみるのも良いかもしれません。